こ・い・し・ひ・ろ・い
思い出が垣間見える場所 ( 1992年春)
1989年・秋。
僕は8年ぶりに日本に帰国した。
成田に着いた僕を出迎える人は無く。長旅の終焉にしては感慨も感激もなかった。
ただ、狭ッ苦しい社会に戻ってきた息苦しさだけは、飛行機から日本の本土が見えた瞬間から感じていた。自分としては最後のフライト地だった香港の地に、この8年間ずっと感じていた自由という感覚はおいて来たつもりだったが、後ろ髪を引かれる思いは残っていた。
帰国して3日後、僕は東京から離れた。
帰国前は東京で暮らすことも考えていたが、東京はすでに僕にとって全く魅力のないものになっていた。
ニューヨークやロンドンやパリやシドニーの街にはあった、街の中の泉がなかったからだ。
海外で暮らしていた頃、疲れれば僕は公園に出かけていった。寝心地の良いフワフワの芝生がどこの公園にもあり、よく僕は寝転がって時間を過ごすのが好きだった。そんな僕の周りにはリスのような小動物も必ず餌をもらいに近づいて来たりもした。そして、バスや地下鉄で30分も郊外に出れば、そこにはもう都会の喧騒を忘れさす静けさがあった。
東京でそんな泉を探すことは不可能だった。ただ馬鹿でかい街が、世界の大都市と比べて、僕にはかすんで見えた。
僕が帰った町は瀬戸内海に面した人口10万足らずの町で、造船と古くからの軍港の町だった。
その町は僕にとっての生まれ故郷ではなく、たった一人の肉親である兄貴が暮らす町だったからに過ぎず、言ってみれば一番転がり込みやすい場所に帰ってきただけだった。
そして、帰ってきて数日間は何も手につかず、ボーっとして過ごした。
自分がこれまで暮らしてきた沢山の街のことも、ほんの1週間前にいた街のことにしても、その時の自分には何か遠い世界のことのように感じられた・・・。
僕はどこをさ迷って来て、これからどこに向かうのかすらわからなかった。
この町の左側に突き出た岬の先端を東側に回り込んだところに小さな入り江がある。
ひょんなことから魚釣りにはまってしまった僕は、仕事が暇になると一人でよくこの入り江に投げ釣りに来るようになった。
日本に帰国してすでに3年、僕も35歳になっていた。
この3年間という時間は色んな意味で苦痛の連続だった。周りでこの国の事しか知らずに暮らす平凡な人達に比べて、僕はあまりにも多くの事を知りすぎた。多くの現実を知り過ぎる事が苦痛になるということを、以前オーストラリアで聞かされたことがあるが、僕は身をもって実感していた。
固定観念だけで偉そうぶる企業の連中を、僕は何度も心の中で毒づき、無知で覇気の感じられない普通の人に対しても失望ばかり繰り返していた。
この3年間は自暴自得の連続だったが、それが最近になりやっと気持ちの上で落ち着きをとりもどせるようになっていた。というよりも、やっと諦めの気持ちを素直に受け入れられるようになり、生まれ育った国に再び順応し始めたと言った方がいいかもしれなかった。
そんな時、僕は再び釣りを始めた。
この入り江では季節によって釣れる魚は変化するが、瀬戸内海特有の干満の差が大きいことと、目の前にある島との間にできた瀬が関係して魚が集まるようで、人気のある良いポイントになっている。キスやギザミ(ベラ科)といった小物から、時には40センチを有に超える真鯛や黒鯛が釣れたりもするので、週末には釣り好きの連中が竿を沢山並べている光景を目にする。。
その日の朝も僕は、岬の先端を回りきり、入り江に入るカーブのところで路側に車を止め、そこで仕掛けを2本投入して車の中でスポーツ新聞を読みながら当たりを待っていた。
平日の通勤時間帯にこんなことができるのも、帰国して自営業を選んである程度の信頼を得て、勝手気ままに仕事を取れるようになった付録なのだが、逆に言えば平日に魚釣りをするような暇な時間があることはいいことではなかった。
僕は一通り新聞に目を通し、投げっぱなしにしてほったらかしにしていた竿の方に目をやった。すると片方の竿のラインがたるんでいた。
「来ちゃったかな。」
僕はハンドルを2回叩き、素早く車を飛び出ると、竿を取り上げて立て、目一杯シャクった。
たまに大物がくるとこういうふうにラインがたるむことがある。最初は獲物が逃げようとしておもりの付いたラインを力任せに引くのだが、抵抗が収まると今度はおもりの重さに逆らわなくなり、おもりが竿側に沈んでいくぶん自然とラインにたるみができるのだ。
手ごたえは十分あった。丸たん棒をラインの先に付けて水の中を引いている感触。これくらいだと大きい。
「一発目からいいのが来ましたよ。」
興奮しながら巻き上げると、案の定45センチは有にあるチヌ(黒鯛)だった。
この岬はぐるりと車で回れるようになっていて、この入り江沿いの部分は波返しに自然の石を2メーターほど積み上げ、その内側に狭い歩道と車道を設けていて、僕が竿を出している10メーター先には、水辺まで下りられる階段があった。
僕はチヌの姿を確認すると慎重にこの階段のところまで寄せて行った。投げ釣りのラインは強いのでめったにばらす事は無いが、鯛はよく急に横に走り出したりするので手元に引き寄せるまでは気を抜けなかった。
しかし、こいつは意外に素直に上がってくれた。
僕は魚の下あごを親指と人差し指でしっかりつかむと、急いで車のところまで戻った。
せっかくの自然の恵みを美味しくいただくには、すぐに生き締めの処理をする必要があったからだ。
クーラーに10センチの深さ位まで海水を汲んできて入れ、そこに用意していた氷を袋ごと入れた。これが最も良い保存方法らしい。そして、ナイフを取り出すとチヌのエラの上。ちょうど背骨の通る部分に付きたて、次に尾の付け根を切った。こうすることで自然に血が抜ける。
動かなくなったチヌを僕はクーラーの中に投げ込むと、自分の手がチヌの血で真っ赤に汚れてしまっていることに気づいた。獲物が大きいと出る血も半端ではなく、タオルで拭くよりも一度手を洗いたいと思った。
この入り江の一番奥まったところにこじんまりとした、長い歴史を感じさせる市営の老人ホームがある。
入り江の幅が100メーター足らずで、波打ち際から道路を挟んで30メーターほどなだらかに駆け上がる斜面に、二階建ての建物が並んで二棟建っていて、海側から見て左が管理棟と食堂棟になっていて、渡り廊下で繋がった右側の方が老人達が寝起きする住居棟になっている。
正門は真ん中より少し左側にあり、道に沿って高さ2メーター弱の塀が正門の両サイドにある。
この正門から管理棟の玄関先まで12、3メーターの距離があるが、アプローチの両側には美れいに管理された芝生が張られていて、よくある「何人も立ち入り禁止」などという野暮な看板は見当たらなかった。
もちろん僕はこのホームに一度も立ち寄ったことはなかったが、頼めば水で手を洗うくらいはさせてもらえるのではないかと思った。
管理棟の左にある駐車場への入り口は、僕がいる20メーターほど先にある。僕はここから入って塀沿いに正門の方へ歩いて行った。
ちょうど駐車場のアスファルトから芝生に上がろうとした時、一人の男性が管理棟から出て来て正門の方に歩いて来るのが見えた。
一瞬注意されるかもしれないと思ったが、僕はお構いなしに芝生の上を彼の方に近づいて行った。
「すみません。」
僕は丁重に声を掛け、頭を下げた。
「あの、手を洗いたいんですが、水を使わせてもらえないでしょうか。」
僕は血の付いた両手を前にかざして見せた。
彼は別に驚いたふうも無く、ちょっとはにかんだ後、なぜか僕を見て微かに笑っていた。
後で知った事だが、彼の名前は重さんと言って、少し知的障害がある人らしかった。
重さんは僕に水道のある場所を教えてくれるらしく、右手で管理棟と住居棟の間を指で示して何度も振腕を振った。僕は指示されるままに動き、水道を見つけることができた。
両手を魚の血で汚してまだそれほど時間がたっていなかったから、水で洗い流すと手はすぐに綺麗になった。
今日は何かついてる。そう思いながら水道を止め振り返ると、重さんがいつの間にか缶コーヒーを持って立っていた。
「飲んで。」
相変わらず微笑みながら、彼は僕に差し出した。
何のために。どうして。僕には彼の気持ちがわからなかったが、
「済みません。もらいます。」
断る気にはなれず受け取った。
僕が中学生だった頃、生まれ育った山間の小さな町に同じような障害を持った人がいた。
彼は竹さんと言って二十歳過ぎだったと思う。僕が中学生になりたての頃から町の材木の製材所で働くようになり、ちょくちょく姿を見かけるようになった。
彼の行動は僕らから見て奇抜だった。
いつも自転車に乗って自宅と職場を行き来していたが、いざ僕らの前で自転車に乗ろうとするとなぜか物凄いダッシュをして見せたり、秋祭りのお宮の境内で見かけた時には、一人で楽しそうに踊っていたりした。
何のためらいも無く年下の僕らに近づいてくる彼を、僕らは心の中で間違いなく馬鹿にしていた。その上話しかけても的を得ない答が返ったりすると、それをいいことに笑っていた。
そんな光景を僕らの一学年下の竹さんの弟が見て、辛そうな顔をしていたのが思い出される。
あれから長い時間が経ったけど、いまだに僕は竹さんのことは忘れてはいない。
5歳も6歳も年下の僕らと同等に付き合ってくれた人を、今は十分理解できるようになったし、彼の弟があの頃何を思っていたかも想像できるようになった。
長男が知的障害児である知人は、弟達に対して、お兄ちゃんは仏様だと思えと教えているが、今の僕は竹さんも仏様だったと思っている。
たぶんそれは僕が世界中の恵まれない地域を実際に自分の目で見てきたことも関係しているだろうし、インドのような場所で実際に人として扱われること無く死んでいく人達と接したことも関係しているだろう。
遠い昔にそれだけの優しい気持ちがあったら、僕は竹さんや彼の弟に接する態度も違ったろうにと思う。
重さんに歳のことを聞いたことがないので、彼が正確に何歳かは知らないし、彼の容姿から歳を判断するのも難しかった。ただ、40前後だろうということは想像できた。それは僕と竹さんの歳の差と同じくらいだった。
我々健常者は重さん達のような障害者を見かけると、どう接していいのかわからず、ついつい避けてしまっているように思う。僕の場合、竹さんという人の存在が過去にあったために、重さんにも自然に接することができた。
重さんもそれは感じ取ってくれていたようで、この先僕がこの入り江に魚釣りにきているのを見かけると、彼は必ずホームの中から手を振ってくれるようになった。それも力一杯。
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